【ニチコミコラム】小さな活躍と老人クラブ
2019 年 1 月 28 日 月曜日 投稿者:ニチコミこんにちは。ワッキーです(^^)/
久しぶりにブログを書きます。
このブログは、ニチコミ社員が経営理念とその基本概念について語るブログです。
今日は私自身の体験談のご紹介をします。
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5年前の話です。
私の祖父と祖母は当時、夫婦二人暮らしをしていました。世相のとおり、この様子は老々介護だと想像してしまいがちですが、そんな雰囲気はなく、いたって元気に生活していました。祖父がやや祖母の世話をする、ということはありましたが、ヘルパーさんが週に1~2回来てくれること以外は自立して生活していました。
二人は地元の老人クラブに入っていました。特に活動という活動は掃除以外にはしておらず、よく会長さんはいい人だとか、お隣さんも老人クラブに入っているだとか言っているので、私は少ない情報をつなぎ合わせて二人が会員であることを知っていました。
ちなみに祖父は元々鹿児島で漁師をやっていた人で、その後は小さな工務店を営んで生計を立て、日頃は武士は食わねど高楊枝と見栄を切るタイプ。たまに私が行くとコーヒーを片手に煙草をふかしながら、今の私の近況を根掘り葉掘り聞き、あえて家に杖を置いて買い物に出かけ、家にいるよう私を制止してスーパーで寿司を買ってきます。
また祖母は、祖父が飲むコーヒーの湯を沸かすことと、トイレに立つ以外には一日のほとんどを座椅子で過ごし、座ったままどこで聞いたのか、近所の奥さんの息子の就職先や、スーパーの寿司は夜の8時以降に半額になるのに、という話をのべつ幕なし話し続ける人でした。
ある日、平和な老後の夫婦生活は、いきなり終わりを告げました。祖母はいつものようにトイレに立つと、トイレのドアの目の前で転び、そのまま帰らぬ人となりました。享年79。死因は心不全で、それまで寝たきりで誰かの世話になったりはしませんでした。大げさになることを恐れずに言うと、それまで普通に話していた祖母は、私の中ではピンピンコロリでした。
郷里の地に生きず年を重ねている夫婦にはさして縁者は多くなく、通夜には私の母など故人の娘たち、あとは来ることのできた孫たちが駆け付け、納棺された祖母を囲みました。
御多分に洩れず葬儀は大変です。夜中でもお寺に電話をかけ、葬儀社が来て段取りをつけるまで誰かが対応し、さらにその対応というものがままなりません。特に祖母の場合は、病院や施設に入ったりするなど、遺族に言わせれば「準備」がありませんでしたので、娘たちは泣くばかりでまともに話もできず、残った孫だけが数人動いて、何かと段取りをしました。
日頃集まらない親族は血がつながっている他人で、コミュニケーションが悪く、このような状況でも価値観の違いで諍いを起こします。夜中にも関わらず言い合いをし、娘たちは嗚咽し、そんな喧騒のなか、安らかな顔をした祖母は近所の斎場で通夜を迎えました。
さまざまな感情のせいで心労した親族は、棺のある斎場に入ると意外なものを見ました。私もこういう時には初めて見たのですが、祭壇の横、控えめな位置に、紫の刺繍がほどこされた立派な旗が立っていました。近隣の人々には家族葬にすると伝えてあったので、私たちがここに来るより先に、誰かが先に来ていたこと自体が私たちにとっては驚きでした。その旗に弔いの意味があることは、誰の目にも明らかでした。その旗には、祖父と祖母が入会している老人クラブの名前が書いてありました。
遺族よりも先に仲間が弔いにきているというこの事実に、私は老人クラブという組織を急速に理解することができました。日頃は運動や寄り合いなどをして健康づくり、掃除にはできるだけ参加するとか、それが近所付き合いだとか、そういう理解の中にある老人クラブですが、彼らは人間の尊厳を誰よりも認識し、いつかは終わる人生に誰よりも祈りを込めていました。彼らは過去の人生を振り返りながら毎日を過ごしているのではなく、今あるこの時をできるだけ貴重で平和なものにするために、今この目の前にある時間を大切にしている存在でした。彼らは、きしむ体と付き合いながら、まだ輝いて見える世界のありがたさを誰よりも知っています。
通夜の席で祖父は棺を見ながら、すぐに泣きやみますが、ふと見ると泣いており、着古した毛糸の上着を何度も何度も目にこすりつけ、そのうちに泣きやみます。この祖父に寄り添っていたのは遺族だけではありません。目の前にある老人クラブ旗の立派な旗は、祖父の涙を理解していました。私の祖母は一日中座椅子に座ったりなんかして、なんともったいない老後だったことでしょうか。しかし、祖父のコーヒーを入れる面倒臭さ、それは彼女にとって喜びだったこともよく分かりました。
翌日の葬儀には老人クラブの会長さんが来てくれ、お焼香をしていただきました。祖母のいう、「いい会長さん」です。寡黙な方で、あまりうちの祖父母とは深い付き合いはありませんが、物腰低く、葬儀が終わるまで片隅に、旗も会長も座っておられました。彼らにとっては当たり前の光景で、いつものことでもあります。数珠を片手に、あまり長くはじっとしていられない会長は早々に帰りました。火葬場で祖母の骨を拾う頃には、遺族は昨日が嘘だったように静かになり、その後大衆割烹で一杯やって、それぞれの生活に戻っていきました。
「いつまでも活躍する」というのは、花火のように上がって最後に見事に花開いたり、老いを知らずにいつまでもマラソンをしているような、絵に描いたものばかりではありません。一日中家の中にいても、その人生に花を添えることはできますし、老いを知っても、杖を捨てて寿司を買いにいくことはできます。それは彼らにとって精一杯の活躍であり、社会からは見向きもされませんが、孫はそれを見て少しだけ感動します。私がこの時見た老人クラブは、そういった人知れず息づく人々でも、どこかで見守り、小さくても幸せと平和があるようにと祈る人々でした。
スーパーの寿司も結構おいしいものです。今度87歳になる祖父にごちそうになろうと思います。
ワッキーでした(^^)/